五十年史再読: 2008年4月アーカイブ
「創 立 の こ ろ」
小 川 勝 次(大正12年)
霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってか らも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学 校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。
私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始 めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出 身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。
小 川 勝 次(大正12年)
霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってか らも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学 校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。
私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始 めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出 身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。