五十年史再読の最近のブログ記事
所沢にある現在の合宿所は、平成2年(1990)に東伏見から移転しました。折りしも、収容人員不足で増改築中ですが、47年前、同様のケースで東伏見合宿所の建替えにご苦労された当時のマネージャー山田脩一氏が五十年史に寄稿した「連続優勝の美酒」の中にある、東伏見の合宿所建設に関する一章をご紹介致します。
(いずれ全文をご紹介いたします。)
写真は、平成2年移転を惜しんで記念撮影。後方が東伏見合宿所
新合宿所建設 (編集者注・昭和36年完成/東伏見)
山田脩一(昭和38年卒)
さきにも書いた通り、メンバーが本年は二十五名になり、合宿所一軒には全員入ることができず、いきおいチームワークにも欠けることになった。そこで山田の急務は合宿所新築にあった。
池田マネのとき東伏見に移って来たものの理事会の議題にも完全な形では出されなかった。前からあった古い宿舎を改築したものが、われわれにあたえられてい たのだが、新合宿所の必要性を大学当局に申し入れ、理事会の議題に入れてもらってから三ケ月の間に四回の取り消しがあって、難産このうえもなく、ようやく 八月二十三日に地鎮祭にこぎつけた。
スキー部五十年史に見る東伏見合宿所の建設の続きを読む
「創 立 の こ ろ」
小 川 勝 次(大正12年)
霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってか らも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学 校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。
私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始 めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出 身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。
小 川 勝 次(大正12年)
霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってか らも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学 校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。
私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始 めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出 身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。