シリーズ歴史を紐解く、「早稲田大学スキー部八十年」(2000年学報)

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 スキー部の創立80周年を迎えた2000年、早稲田大学校友会の「早稲田学報」に元スキー部監督の富樫道廣氏が、大変分かりやすく歴史を振り返って記述されています。

草創期から80年に至る激動の様子が伝わってきます。

あと2年で90年、創部100年もそう遠い話ではありません。

歴史をよく知り真の早稲田スキーヤーを目指したいものです。 (依田敬一)

 

 

 早稲田大学スキー部八十年

                      

                       元スキー部監督 富樫道廣80年富樫氏写真2.jpg

 

早稲田大学スキー部は、今年創部八十年になる。その草創の歴史は、日本の競技スキーの歴史そのものである。「一大学のスキー部史が一国のスキー競技史に一致するのは非常にめずらしいことである。」 (中川新)

 

出発。 1920年

 日本のスキーの発祥が、明治四十四(1911)年オーストリアの武官レルヒ少佐による、新潟高田五十八連隊のスキー訓練によるものであることは、多くの合意の得られるところである。

 当時の高田は大変なスキー熱であった。それから数年して早稲田大学にもスキー部を創設する動きが起こる。中心になったのは当然のことながら高田中学の出身者で、霧島啓樹、東條義人、西沢勝次(のち小川)などであった。

 当時早稲田大学には剣道、柔道、野球、庭球、短艇、弓術、水泳、競走、相撲、ラ式蹴球などの部が存在していた。

 その頃、山岳関係者の中で、部の創設を目指していることがわかり、創設運動を大学にもちかけるのに、勝負を争う競技でない山岳単独でやるより、スキー関係者が入ることで学校当局も許可しやすいだろうと、頭のいい人たちが考えたらしい。結果はそのとおりで、大学は山岳部として承認した。(1920年)

 スキー部が独立したのは、それから二年後のことである。当時の名簿の中に双方に重複している会員が見られるのも、そんな理由からである。また本誌の今年1月号に、山岳部八十周年の記念行事の記事が掲載されていたが、スキー部は山岳部の二年あとになると思う向きもあろうが、山岳部が認定された大正九(1920)年にはすでに、合意のうえで「山岳会スキー部」として、合宿練習などの活動を開始していた。

われわれはその「山岳会スキー部」を起源とする。

 本格的スキーの発祥が新潟高田とはいえ、全国各地でスキーはすでに行われていた。スキー部に集ったのは高田出身者のほか、北海道の高橋昂、樺太の中川新など、各地で錬成されたスキー術を身につけた者ばかり。その長所が集約されて、混成軍として早大スキー部となったのである。

 学生連盟ができて大学対抗競技が始まるのは昭和三年からであるが、その前に第一回全日本スキー選手権大会が大正十二(1923)年小樽市で開催され、早大スキー部は部長・神尾錠吉教授のもと、関東代表として出場、地域対抗四位の成績を残している。

その後、二回から六回まで距離競技を中心に、中川、高橋、矢沢(のち保科)、吉田、竹節、永田などが活躍、リレーでは四連勝を記録している。

 

草創のころ。サンモリッツヘ

 昭和三(1928)年、第二回冬季オリンピックがスイスサンモリッツで開催され、日本が初参加する。選ばれた六選手のうち、五名が早大スキー部員の高橋、矢沢、竹節、永田、麻生であった。

サンモリッツ写真.jpg
 

体協は選手を選考したものの予算の裏づけが立たず、遠征費の立替を要請する始末。当時のスキー部長、武信由太郎教授(有名な英和辞典の編者)の大英断で、大学からその金額を体協に貸し出したという。当時の早稲田大学は、体育と競技スポーツに期待と理解を示していた。

 サンモリッツでの成績はともかく、そこで得た情報、知識は膨大なもので、それを「早大スキー部報」第二号に掲載、黎明期の日本スキー界に一大センセーションを巻き起こした。

 印刷物が最大のメディアだった当時として、当事者たちから生の情報をもらうことは夢のようなことで、帰国選手の滑走フォームを見物しようと、ほうぼうに人だかりの山ができた。特に竹節のスタイルは評判で、ニッカポッカにストッキング、スチルンバンドという、ヘアバンドの上が十字になっているものをかぶり、腰には毛皮の鞘に人れた短刀を下げて滑る姿は、若者のあこがれであった。

 あとで本人に聞けば、この短刀はワックスをはぐスクレーパーだったそうである。

 スキー部の歴史を、学生選手権を中心に時系列で区分すれば、第二次大戦の中断を境に大きく二つに分けることができる。さらに戦前を二つに分けて草創期と発展期、中断が入って戦後派5,6年の再建期のあと栄華をきわめる飛翔期、そのあと現代にいたる隠忍自重期ということになるだろう。

 

発展。学生大会も軌道に

 これによれば草創期は、サンモリッツのオリンピックまでとする。発展期に入っては、学生大会も軌道に乗り始める。

 当初の宿敵は北大で、連敗を喫し、大会会長に優勝旗は津軽海峡を越えることはないだろうとまでいわれたものを、翌年には見事初優勝を果たし、前言を撤回させたものである。

 連覇の原動力になったのは、第三回オリンピック、レークプラシッド(米国)の代表になる岩崎、坪川()などである。さらに多くの優れた選手が集ったが、後の後輩たちに大きな影響を与える岡崎(裕)主将のリーダシップが、統率のとれた不動の団結力をもつチームをつくったのである。

 さらに昭和九年には、全国的に名をとどろかす「暁の特急」の異名をもつ野崎、のちにドイツのガルミッシュ五輪で最長距離をマークした龍田()の加入を得て、さらに躍進、初の三連覇を果たした。この頃から敵は北大から明治に変わり、久慈、龍田()、西、峰村、山田など闘志のかたまりのような名選手が続々登場する時代になるが、宿敵明治もこれに劣

らぬ陣容で挑みかかり、さながら戦国時代を思わせる大接戦が毎シーズン繰り広げられるが、昭和十四年から十七年まで、僅少の差で苦杯をのまされてきた。勝てたのは戦争で中断される前年、昭和十八年、五年ぶり7度目の優勝の時である。

 この期で特筆すべきは、全日本選手権における、久慈の複合での三連勝の快挙である。

 戦中、戦後の昭和二十一年まで全国大会はすべて中止。昭和二十二年になって戦後初の学生選手権大会が小樽で再開、再建期が始まる。しかし学制の改革、新旧制度の学生が入り乱れ、統制もままならなかったが、橋本が復学、統率、牽引力を発揮、昭和二十四年、小干谷での第二十二回の大会で通算八度目の優勝を勝ちとった。

                                                     

戦後。飛翔のとき

 その後しばらくは低迷を続けるが、稲門スキーの協力体制も整い、久慈、龍田()の強力な指導の下、チームづくりがなされ、吉沢、関戸(茂)などの大物選手の加人に続いて、ジャンプ・複合の柴野、藤田、渋谷、久蔵に距離の中山、八重樫、伊藤、アルペンには斉藤、多田というような強力な布陣で、小樽、大鰐、鳴子と戦後初の三連覇をかちとった。飛翔期のスタートである。その後、五、六年の不本意な時期を過ぎて、わがスキー部は再び大きな飛翔をする。

 昭和三十七年から四連覇の上昇カーブを登りつめるが、牽引力になったのは前人未踏の複合四連覇を達成した藤沢()である。

大鰐優勝.jpg
 学生大会とはいえ、学生の努力の陰に稲門スキー倶楽部の支援が見え隠れする。龍田()監督をリーダーとする、堀、川崎、関戸()などのコーチ陣による強力な指導は評価されるべきだろう。

 入試難などもあって、四連覇のあと、昭和四十二年の第四十回の一勝が光るだけで、今日に至るまで勝利の輝きは見られない。

 これまで体育学専修や、人間科学部の特別推薦などでぼちぼち選手は人学しているが、本格的なチームづくりをするまでには至っていない。そんな隠忍自重期の中でも他校にひと泡吹かせるような活躍がないでもない。

 昭和五十年から五十五年にかけての中野、山本のがんばり、特に昭和五十三年の第五十一回大会では初日の大回転で、小田桐を先頭に扇谷、藤倉、羽田と人賞、新人だけで大量得点を独り占めにした。三十キロでは菊地、工藤が高得点、複合、ジヤンプでは山本が優勝、二位と荒稼ぎ、他校の心胆を寒からしめ、すわ十一年ぶりの優勝かと思われたが、いま

一歩届かず夢と消えたこともある。

 ノルディック選手が人学できず、アルペンだけの大会参加の年も出てくるが、秋山、我満などの活躍で一部リーグの体面を保つことができた。しかし恐れた二部転落の憂き目を見る日は来る。平成八年、第六十九回の大会だった。しかしさすがに翌年二部で優勝、一部復帰、平成十年には堂々三位に返り咲いた。

心に響く「早稲田の栄光」

 この長い隠忍自重期に、スキー部で最も輝かしい、誇らしいこともあった。

 河野、荻原(健)による、アルベールビル、リレハンメルの連続金メダルである。新しく、複合の団体種目ができて、三名による総合点で勝負を決めるのである。距離競技はりレーというスペクタクル。三名のエントリーのうち両五輪ともに河野、荻原の早大組が占め、とくにアルベールビルでは荻原はまだ現役学生。文字どおり手に汗を握り、日本中をテレビに釘づけ、そしてアンカー荻原の日章旗を振りながらの笑顔のゴールに日本中を歓喜のるつぼに巻き込んでくれた。

  早慶戦に歌った「早稲田の栄光」という歌がある。神宮の森で肩を組みいい気持ちで歌ったものだ。その3番に、

   昴然と高鳴る胸に

   伝統の息吹通いて 

 翻えす校旗の紅に

     感激の血潮は沸る:

 とある。荻原健司のゴールを見て、私の頭の中はこの歌詞が駆けめぐった。遠征費を立て替えて出かけた日本初参加のサンモリッツ五輪から六十四年目である。早稲田大学にスキー部の現役学生が金メダルを持って帰って来たのである。聞くところによれば現役学生のオリンピックの金メダルは、早稲田では織田幹雄氏(三段跳び)以来らしい。

河野荻原.jpg
 早稲田大学の歴史と伝統が金メダルをもたらしてくれた。これまで述べたスキー部八十年の概略は表面は栄光に包まれても、その根幹は、血と涙、汗と脂でなわれた太い絆である。この絆が絶えないかぎりスキー部の光は衰えることはない。

三十年前、スキー部は五十年史を刊行した。山口幸一が主幹となり、瓜田卓造が編集したものである。克明な記録・年表は山口によるものであり、歴代の名選手の著述は瓜生が本人たち自身から得たものである。八十年を振り返るに当たり、いま読み返してみるに、ここにまた早稲田の伝統を知ることができる。ひと言触れておきたい。   (昭33東哲)

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このページは、稲門スキー倶楽部が2008年6月12日 11:15に書いたブログ記事です。

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