スキー部五十年史に見る東伏見合宿所の建設
所沢にある現在の合宿所は、平成2年(1990)に東伏見から移転しました。折りしも、収容人員不足で増改築中ですが、47年前、同様のケースで東伏見合宿所の建替えにご苦労された当時のマネージャー山田脩一氏が五十年史に寄稿した「連続優勝の美酒」の中にある、東伏見の合宿所建設に関する一章をご紹介致します。
(いずれ全文をご紹介いたします。)
写真は、平成2年移転を惜しんで記念撮影。後方が東伏見合宿所
新合宿所建設 (編集者注・昭和36年完成/東伏見)
山田脩一(昭和38年卒)
さきにも書いた通り、メンバーが本年は二十五名になり、合宿所一軒には全員入ることができず、いきおいチームワークにも欠けることになった。そこで山田の急務は合宿所新築にあった。
池田マネのとき東伏見に移って来たものの理事会の議題にも完全な形では出されなかった。前からあった古い宿舎を改築したものが、われわれにあたえられてい たのだが、新合宿所の必要性を大学当局に申し入れ、理事会の議題に入れてもらってから三ケ月の間に四回の取り消しがあって、難産このうえもなく、ようやく 八月二十三日に地鎮祭にこぎつけた。
大学の新年度は四月から始まるので四月上旬から監督と相談して大学当局への働きかけを検討した。これにはまず林部長にとりあえず強力にバックアップしてい
ただくことと、OBをフルに大学当局の方に来ていただき陳情これつとめた。富永さんには体育局長の安井現スキー部長に、朝日新聞での知り合のよしみと前監
督のスキーに対する説明と、また馬場さんにはちょうどその時証券取引所の常務理事でご多忙であったにもかかわらず、母校の大学院で証券実務の講師をなさっ
ていたので、理事会当局に、そして龍田監督には現場である営膳課へ再三再四来校していただき、よぅやく理事会でのOKを取った時はすでに六月の末であっ
た。辛らく歯がゆい思い出が今も残っている。馬場さん、龍田さん、その他幾人ものOBが来校され、大学当局の人々と逢っていただいたとき、決まって出る言
葉は、スキー部はいつも負けているね、といういやみのあるアイサツが多かったという。六月の初めに竜田監督が来た時は、さすがに竜田さんも“松井、どうし
ても本年は勝たねばいけない。どうしたらよいか、もう一度ここで計画を練りなおすように“と、松井さんとともに高田牧舎で昼食をとりながらいわれたことも
あった。
この間、四、五、六月の三ケ月の間に、私は毎日営膳課に行って花崎課長にかけあい、現況を説明した。この頃は営膳課は第二学生会館の三階にあったが、さす がににべもなく毎日ことわられるので、三階への階段は長く見えた日もあった。時には花崎課長をぶんなぐろうと思ったこともあったし、また階段の前までいっ ては池田靴店に帰り、オジサンと相談して出なおしたことも再三であった。この時なぜ私のみがこんなことをするのかとつくづくいやになり、池田のオジサンや 龍田監督夫人に常に相談した。そしてなだめられてはまた体育局、営膳課、そして理事室の秘書に応援部の田古島さんがいたので、各理事にあったときはこれこ れを耳に入れてくれるように、時があれば必ず頼みに行った。理事にはスキーそのものを全然理解しない人が幾人もいた。
理事会のOKは六月末に出たが、OKが出る前に営膳課に依頼して合宿の問題については充分に註文をつけていた。花崎課長はいつも一笑にふしていた。しかし 設計の方の加藤さんというかたはいろいろと話を聞いてくれた。これが唯一の私のなぐさめでもあった。間取りに関しては龍田監督の意見を全面的に押し出し た。収容人員は二十五人、これは一学年各種目二名の六人、四学年の二十四人とマネジャー一人ということ、おばさんの部室、そして居間兼食堂はなるたけ広く とる。これは二十五人の生活をささえる全員の広場であることに留意した。またスキー用具のための風通しのよい置場、そして選手は毎日がライバルとの心理的 な競走であるし、共通してみな神経質である。そのため、一人一人の時間を充分にとれるようにべッド式の一部室方式、新人のための和室、これは新人はチーム ワーク形成のため同一に生活した方がより効果的との判断による。これらから最大限に出来る大きさを考えて、また合宿所そのもののデザインは向かいの競走部 と相似形にして競走とスキーの合宿所の真中に大樹をとりつけることにした。
しかしこうしているうちに七月になり、大学は夏休みに入ってしまった。そのうち黒田理事がどうしてもスキー部の東京に合宿所を建設するのに反対するので、理事会の意向は取り消すとの件を体育局から連絡があったときには、これほどびっくりしたことはない。
これはOKが出た理事会に黒田理事が出席していなかったので、事後報告には納得がいかないとのことであった。黒田理事の意見はスキーは冬するもので、東京 に合宿所を建設するよりも、どこかスキー可能な山に建設すべきだという論であった。その時私は教授というのは自説を頑固にいいはることではまれに見る怪物 だとおどろいた。私は松井主将にすぐ連絡をとり、前後処置をどうするか相談し、龍田監督とも電話し、その日のうちに林部長に面会に行った。というのは部長 は三日前に盲腸で築地の聖路加病院に入院中であった。松井、宮川、山本と四人で見舞かたわらこの件を話して相談したところ、部長はちょぅど今日から少し歩 ける段階だ。だがありありと義憤を顔に表わし、その場で村井理事長に電話した。丁度大学に理事長もいたので、話は進んだのだが、この時部長は電話で理事長 に“村井さん、私は二日前に腹を切っているので、長いこと話せないが、この件で学生が私のところに来ているが、私を怒らさせるのにわざわざこんなことをし ているのですか、あなたが理事会で決定した事項を取り消すのはあなたの責任だから、黒田理事によくあなたから説明して明日までに私の所に連絡して下さい” ものすごいけんまくであり、部長も学部長になる一年前で四十八歳の若さも手伝ってのことであろうが、この時は私たちの方でびっくりした。そしてつぎの日、 理事室で村井資長理事長に会って、黒田理事とは了解がついたから、との返事をもらってほっとして、私は帰郷し、酸ケ湯合宿に八月二十日に入った。大学から 二十日夜、電報で二十三日に地鎮祭をやるのですぐ上京せよとのことで、その足で上京し、二十一日、二十二日と電話で各先輩に連絡し、盛大に地鎮祭を済ませ て、完成したのが十月末であった。ここでこの合宿所建設に対して多大のご寄附を三馬ゴム株式会社吉村伝次郎氏よりいただき、またOB各位よりも多額の寄附 をあおぎ完成にこぎつげましたことを報告します。
六月十三日に石神井公園で駅伝が行なわれた。この年は早稲田と立教が当番校であった。試合には早稲田も強化メンバーで二チーム出場した。結果はラップタィ ムを比してもかんばしいものではなかった。これは五月からの練習方法にも一因があると思うが、それは微々たるものであろう。試合終了後主将、主務の親睦会 が行なわれ、この時他校より在京駅伝に参加する早稲田の意識問題がとりあげられて松井主将ともども随分とにがい酒であった。帰りに主将と二人で本日の結果 について分析してみた。それは他校が指摘の通り早稲田の選手に気迫が欠けていると見られるに充分なデーターであり、とくに自分には寺田のタイムが気にくわ なかった。寺田は青森県の陸上で五000メートル、一五00メートルの選手権保持者であり、その気で走れば、北村(日大)や井上(日大)などの比ではない はずであった。合宿所はこのころ新築のためグリーンハウスに移っていたのだが、酒の勢いも加わり一年、二年を集めた。
親睦会での他校の非難と今日の戦果を述べて、特に距離陣の寺田、成田、佐々木亮らを叱院した。しかしこの時、寺田より異論が出て、舌戦となったが(彼はこ の時酒気をおびて論ずるの非をとがめた)大坊が中に入って出て、その場はおさまった。ただこの時私自身のうっぷんもあったのだが、前期の第一回のタイム レースで寺田と同タイムで一位になったこのことが私には無精にしゃくだったのだ。私は仕事の関係でしばしば練習を抜けていたにもかかわらずこの状態であ る。この気力のなさに対する憤懣でもあった。しかし幸いなことに次の日から六日町の三羽烏や中村、成田、高本たちが発奮してくれた。一週間ぐらいの間に二 年も三年も今までにない気迫をみせるようになった。間もなく前期も終了し、各自帰省し、酸ケ湯合宿を終えて上京した選手はみんな元気であった。佐々木昌、 渡辺から酸ケ湯の模様を聞いて当初計画した練習が軌道に乗っているように思われたし、故障者のないのがなによりであった。後期練習を前にして、三年、四年 で合同の練習スケジュールが検討され、実行にうつされた。この後期における練習は、各種目別が主になりながらも、基本的には長距離走破に主目標がおかれ、 距離ばかりでほなく、アルベン、飛躍陣も、これが基礎になった。そのため前年までの走行距離に比して、百五十%ぐらいは走っていたものと思う。前年までは インタ一バル走法が主であったが、本年は休みのない長距離走法が毎日であった。これが終了してなおまた、インターバルに入るといぅことで極力走力に力点を おいたのである。
十月末、合宿所完成のころには新人も見違えるほどの耐久力をつけていた。距離陣は二0キロメートルはなんとも思わなくなった。秋のタイムレースは一時間以 上のものばかりであった。アルペン陣もよく走った。この頃になってようやく宿舎も完成した。新合宿所の落成式は、先輩諸氏並びに大学当局の多数の列席を賜 わり、伏見稲荷の神主に来ていただいで盛大にとりおこなわれた。
四年生も約一力月間新合宿所の木のかおりにひたって寝たことである。この年は前年のように大学でも安保斗争のような騒ぎもなく、比較的スムーズに進み、われわれも各冬期合宿に入っていった。 (完・新合宿所建設の節)
この間、四、五、六月の三ケ月の間に、私は毎日営膳課に行って花崎課長にかけあい、現況を説明した。この頃は営膳課は第二学生会館の三階にあったが、さす がににべもなく毎日ことわられるので、三階への階段は長く見えた日もあった。時には花崎課長をぶんなぐろうと思ったこともあったし、また階段の前までいっ ては池田靴店に帰り、オジサンと相談して出なおしたことも再三であった。この時なぜ私のみがこんなことをするのかとつくづくいやになり、池田のオジサンや 龍田監督夫人に常に相談した。そしてなだめられてはまた体育局、営膳課、そして理事室の秘書に応援部の田古島さんがいたので、各理事にあったときはこれこ れを耳に入れてくれるように、時があれば必ず頼みに行った。理事にはスキーそのものを全然理解しない人が幾人もいた。
理事会のOKは六月末に出たが、OKが出る前に営膳課に依頼して合宿の問題については充分に註文をつけていた。花崎課長はいつも一笑にふしていた。しかし 設計の方の加藤さんというかたはいろいろと話を聞いてくれた。これが唯一の私のなぐさめでもあった。間取りに関しては龍田監督の意見を全面的に押し出し た。収容人員は二十五人、これは一学年各種目二名の六人、四学年の二十四人とマネジャー一人ということ、おばさんの部室、そして居間兼食堂はなるたけ広く とる。これは二十五人の生活をささえる全員の広場であることに留意した。またスキー用具のための風通しのよい置場、そして選手は毎日がライバルとの心理的 な競走であるし、共通してみな神経質である。そのため、一人一人の時間を充分にとれるようにべッド式の一部室方式、新人のための和室、これは新人はチーム ワーク形成のため同一に生活した方がより効果的との判断による。これらから最大限に出来る大きさを考えて、また合宿所そのもののデザインは向かいの競走部 と相似形にして競走とスキーの合宿所の真中に大樹をとりつけることにした。
しかしこうしているうちに七月になり、大学は夏休みに入ってしまった。そのうち黒田理事がどうしてもスキー部の東京に合宿所を建設するのに反対するので、理事会の意向は取り消すとの件を体育局から連絡があったときには、これほどびっくりしたことはない。
これはOKが出た理事会に黒田理事が出席していなかったので、事後報告には納得がいかないとのことであった。黒田理事の意見はスキーは冬するもので、東京 に合宿所を建設するよりも、どこかスキー可能な山に建設すべきだという論であった。その時私は教授というのは自説を頑固にいいはることではまれに見る怪物 だとおどろいた。私は松井主将にすぐ連絡をとり、前後処置をどうするか相談し、龍田監督とも電話し、その日のうちに林部長に面会に行った。というのは部長 は三日前に盲腸で築地の聖路加病院に入院中であった。松井、宮川、山本と四人で見舞かたわらこの件を話して相談したところ、部長はちょぅど今日から少し歩 ける段階だ。だがありありと義憤を顔に表わし、その場で村井理事長に電話した。丁度大学に理事長もいたので、話は進んだのだが、この時部長は電話で理事長 に“村井さん、私は二日前に腹を切っているので、長いこと話せないが、この件で学生が私のところに来ているが、私を怒らさせるのにわざわざこんなことをし ているのですか、あなたが理事会で決定した事項を取り消すのはあなたの責任だから、黒田理事によくあなたから説明して明日までに私の所に連絡して下さい” ものすごいけんまくであり、部長も学部長になる一年前で四十八歳の若さも手伝ってのことであろうが、この時は私たちの方でびっくりした。そしてつぎの日、 理事室で村井資長理事長に会って、黒田理事とは了解がついたから、との返事をもらってほっとして、私は帰郷し、酸ケ湯合宿に八月二十日に入った。大学から 二十日夜、電報で二十三日に地鎮祭をやるのですぐ上京せよとのことで、その足で上京し、二十一日、二十二日と電話で各先輩に連絡し、盛大に地鎮祭を済ませ て、完成したのが十月末であった。ここでこの合宿所建設に対して多大のご寄附を三馬ゴム株式会社吉村伝次郎氏よりいただき、またOB各位よりも多額の寄附 をあおぎ完成にこぎつげましたことを報告します。
六月十三日に石神井公園で駅伝が行なわれた。この年は早稲田と立教が当番校であった。試合には早稲田も強化メンバーで二チーム出場した。結果はラップタィ ムを比してもかんばしいものではなかった。これは五月からの練習方法にも一因があると思うが、それは微々たるものであろう。試合終了後主将、主務の親睦会 が行なわれ、この時他校より在京駅伝に参加する早稲田の意識問題がとりあげられて松井主将ともども随分とにがい酒であった。帰りに主将と二人で本日の結果 について分析してみた。それは他校が指摘の通り早稲田の選手に気迫が欠けていると見られるに充分なデーターであり、とくに自分には寺田のタイムが気にくわ なかった。寺田は青森県の陸上で五000メートル、一五00メートルの選手権保持者であり、その気で走れば、北村(日大)や井上(日大)などの比ではない はずであった。合宿所はこのころ新築のためグリーンハウスに移っていたのだが、酒の勢いも加わり一年、二年を集めた。
親睦会での他校の非難と今日の戦果を述べて、特に距離陣の寺田、成田、佐々木亮らを叱院した。しかしこの時、寺田より異論が出て、舌戦となったが(彼はこ の時酒気をおびて論ずるの非をとがめた)大坊が中に入って出て、その場はおさまった。ただこの時私自身のうっぷんもあったのだが、前期の第一回のタイム レースで寺田と同タイムで一位になったこのことが私には無精にしゃくだったのだ。私は仕事の関係でしばしば練習を抜けていたにもかかわらずこの状態であ る。この気力のなさに対する憤懣でもあった。しかし幸いなことに次の日から六日町の三羽烏や中村、成田、高本たちが発奮してくれた。一週間ぐらいの間に二 年も三年も今までにない気迫をみせるようになった。間もなく前期も終了し、各自帰省し、酸ケ湯合宿を終えて上京した選手はみんな元気であった。佐々木昌、 渡辺から酸ケ湯の模様を聞いて当初計画した練習が軌道に乗っているように思われたし、故障者のないのがなによりであった。後期練習を前にして、三年、四年 で合同の練習スケジュールが検討され、実行にうつされた。この後期における練習は、各種目別が主になりながらも、基本的には長距離走破に主目標がおかれ、 距離ばかりでほなく、アルベン、飛躍陣も、これが基礎になった。そのため前年までの走行距離に比して、百五十%ぐらいは走っていたものと思う。前年までは インタ一バル走法が主であったが、本年は休みのない長距離走法が毎日であった。これが終了してなおまた、インターバルに入るといぅことで極力走力に力点を おいたのである。
十月末、合宿所完成のころには新人も見違えるほどの耐久力をつけていた。距離陣は二0キロメートルはなんとも思わなくなった。秋のタイムレースは一時間以 上のものばかりであった。アルペン陣もよく走った。この頃になってようやく宿舎も完成した。新合宿所の落成式は、先輩諸氏並びに大学当局の多数の列席を賜 わり、伏見稲荷の神主に来ていただいで盛大にとりおこなわれた。
四年生も約一力月間新合宿所の木のかおりにひたって寝たことである。この年は前年のように大学でも安保斗争のような騒ぎもなく、比較的スムーズに進み、われわれも各冬期合宿に入っていった。 (完・新合宿所建設の節)