改めて「早稲田大学スキー部五十年史」を読む 「創立のころ」
「創 立 の こ ろ」
小 川 勝 次(大正12年)
霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってか らも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学 校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。
私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始 めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出 身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。
小 川 勝 次(大正12年)
霜鳥啓樹、東条義人、それに私の三人は、大正六年高田中学の卒業で、中学時代からいつも一緒にスキーに出かけていた仲だった。そんな関係で早大に入ってか らも、学校裏の越佐クラブでよくおち会った。おち会うと、話題はいつも“早大にスキー部を作ろうじゃないか”ということだった。
越佐クラブというといかにも堂々たる建物を連想するが、学校の二十番教室からグラウンドへの途中、今にも倒れそうな古いバラック建の六畳一間で、利点は学 校に近いといぅことだけだった。仙台生まれのバンツァンが住んでいて、たまに渋茶を出してくれる程度のお粗末さだった。
当時の早稲田大学体育会には十いくつかの部があったが、柔道部、剣道部・野球部、陸上競技部、水上競技部、ボート部、庭球部などが有名であり、また勢力もあった。新しい部を作って学校当局の認可を得るには、先ずこういう有力な部の賛助を得ることが必要であった。
私どもは学校当局に当たってみると同時に、これら有力な部の幹部にも理解を求め、併せて協力をお願いした。また一方ではスキーに経験ある人々の募集を始 めた。ところがうれしいことに山田広がボート部から、岩田繁二一が剣道部から参加し、樺太出身の蒔田庄太郎、中川新、北海道出身の鎌田儀三郎、高田中学出 身の幸田泰治も馳せ参じてきた。また長岡中学出身の橋本済はスキーと登山の熟達者であることも判った。私も野球部をやめスキーに専念することにした。
ちょうどその頃、山岳関係者の中からも部の創立を目指して運動を始めていることが判った。
当時早大には井上寿三を中心として土屋由郎、会田次郎らにより”登山会”と呼ぶ登山愛好者の小さい組織があった。もともとこの井上は登山の経験者ではな かったといわれるが、その人柄をしたってか、次第に会員が増加し、この登山会のメンバーが部の創立運動を始めたのであった。
元来登山は勝敗を争う純粋のスポーツではない。そのため学校当局も部として公認することには難色を示したらしい。そこで頭の良い連中は、スキーの関係者が 部の創立運動を始めているのを聞いて「共に山を相手とし、縁の深いお互いだ、一緒になって運動を展開しよう」ということになった。打診してみると、学校当 局も体育会の各部もこの方針に賛意を表した。
そこで両者の話し合いが始まった。前記三名のほか北儀一郎、本山栄三・藤原武夫、舟田三郎、鈴木勇、小笠原勇八、中島泰一郎、八代陽らと会談したこと、またこの中の数名は夜おそく、霜鳥につれられて私の家(当時牛込の大曲にあった)を訪ずれ話し合ったことも覚えている。
話し合いは順調に進んだ。そして部の名称を「山岳会スキー部」とすること、第一回の事業としてスキー合宿を妙高山麓の関温泉で行なうことをきめた。大正九年十月のことである。
山岳会スキー部の合宿は大正九年十二月終わり、関温泉の笹屋と朝日屋の二軒に分れて宿泊し行なわれた。会する者四十余名・スキーでは前記のほか中川太郎・波部光民、渡部良吉、鈴木信三、若林初太郎等でほかに数名の飛入りもあった。
スキー関係者はすべてスキーを持って参加したが、山岳関係ではまだスキーを持っていない者もいた。そこで舟田は、あらかじめ高田のスキー商、山善へ行き、 リリエンフェルト式締具のついた立派なスキー十台を借りてきて、これらの人々に穿かせた。このスキーは一度使用したため返却することがでぎず、結局代金を 支払わざるを得ないことになった記憶がある。
この合宿に持参した私の装備は次の品々であった(数学は値段)。
スキー(二米・ケヤキ材、リリエンフェルト式締具、山善製、四円五十銭)、両杖(竹製、一円)、スキー靴(網倉製、十二円)・ルックサック(美津濃製、五 円)、セーター(美津濃製、六円)、ほかに毛糸製スキー帽、手袋を持ち、乗馬ズボンに太い毛糸で編んだ舶来のストツキングを穿いた。アノラックはまだ輸入 なく、シールも持っていなかった。大勢の中には軍靴に巻ゲートル、それに角帽で通した者もいた。
講師に笹川速雄、小林達也両氏を依頼した。笹川氏は笹屋のご主人で、当時スキー界の第一人者といわれ、山スキーもこまかい技術もうまかった。小林氏は勝 れた体力で登山に強く、しかもその技術は日本一といわれ、神奈山の大斜面をあざやかなボーゲンを描きながら降るその見事さは、われわれのあこがれであっ た。ただ小林氏は高田の小学校の先生をしておられたので、指導を受けた日は少なかった。この両氏は当時の日本スキー界の代表であり、日木スキーの創始期に 活躍された高橋進、阿部正量両氏につぐ大物であった。われわれがいきなりこの両氏の指導をうけることができたのは幸であった。
当時ほかの大学のスキー部にはまず北大があり、東京では東大と学習院があった。したがって早稲田大学スキー部は大学スキー部としては四番目に創立されたこ とになる。東大と学習院も関と赤倉を根拠地としていた。まだ権威ある競技会が行なわれていない頃のことであるから、毎日行なう練習も、各種登行のほか、直 滑降、斜滑降、全制動、半制動、全制動回転、ボーゲン、クリスチャニア、テレマーク等の初歩の基礎的な技術が主で、その技術を実際に生かすための登山で あった。関温泉の裏に聾える神奈山が最高の目的としてスキー登山された。
早大山岳会スキー部の合宿もこの程度の域を越えることなく、巧い者もいて、笹川氏をして”もうおまんたには教えることがない”と嘆かせた場面もあったが、半数以上は初心者だった。
ほとんど高田産のスキーを穿き、滑降を楽しんだ。朝日屋に合宿をしていた連中が、笹屋の待遇より悪いといい出しもめたこともあったが、まあ和気あいあいの一週間だった。宿料はいくらだったかはっきり覚えていないが・一日二一食付きで八十銭位ではなかったかと思ぅ。
一日熟達者だけ十名ばかりで・燕をまわり赤倉へ出かげたことがあった。登りきって丸山の急傾斜を一気に降り、赤倉で練習している人々を驚かせたが、帰路に なって岩田繁三だけは燕を迂回しないで、大胆にも大田切の断崖を横切り夜になって戻って来た。帰りがおそいので遭難したのではないかと私たちを心配させ た。
この大正九年の二月に高田で開催された第八回全国スキー大会の大学高専組に六名の選手が出場した。蒔田、霜鳥、東条、中川、山田、幸田の六名で、早大ス キー部はじめての競技出場である。コースは高田市郊外にあり・レルヒコースと呼ばれている旭山から黒田山を経て陸軍射撃場までの三キロ余で、最後に平地は あるがほとんどが滑降コースである。この競技を当時内地では長距離競走といい、同時出発であった。スタートとゴールを同一地点とし、30秒おきに出発する 現在の距雛競技はまったく考えられなかった。このコースの記録は大正二年の二十一分であったものを、高田中学の選手によって十二分台にまで更新されてい た。この競走で中川新が優勝した。しかし記録は中学選手が十三分台のタィムを出したのに対し、中川の記録は二十四分であった。翌朝の高田日報は次のような 記事をのせた。"この競走はさすが大学選手のこととて悠々閑々二十分を過ぎるも姿を見せず、ようやく二十四分にして早大の中川選手ははうようにして決勝線 に入れり”と。
附記
1、早大選手は翌大正十年のこの大会には出場しなかった。同十一年池の平での東京スキー倶楽部主催の"日本スキー選手権大会"には出場し、爾来、翌年から開催された。第一回全日本ス キー選手権大会"からは毎年出場し、かがやかしい歴史をのこしている。
2、上記のようないきさつの上、山岳会スキー部は創立されたが、学校体育会への加入は許可にならず、加入が承認されたのは大正十年九月で、それもまだ仮加 入といぅことであった。正式に承認されたのは翌大正十一年である。その際の代表委員は山田広と小笠原勇八、委員は山岳から中島泰一郎、土屋由郎、会田次郎 の三人、スキーから中川新、東条義人、蒔田庄太郎の三人が選ばれた。さらに、山岳会スキー部が発展的に解消して山岳部、スキー部が夫々独立して 加入承認されたのは大正十二年であった。(完)
当時早大には井上寿三を中心として土屋由郎、会田次郎らにより”登山会”と呼ぶ登山愛好者の小さい組織があった。もともとこの井上は登山の経験者ではな かったといわれるが、その人柄をしたってか、次第に会員が増加し、この登山会のメンバーが部の創立運動を始めたのであった。
元来登山は勝敗を争う純粋のスポーツではない。そのため学校当局も部として公認することには難色を示したらしい。そこで頭の良い連中は、スキーの関係者が 部の創立運動を始めているのを聞いて「共に山を相手とし、縁の深いお互いだ、一緒になって運動を展開しよう」ということになった。打診してみると、学校当 局も体育会の各部もこの方針に賛意を表した。
そこで両者の話し合いが始まった。前記三名のほか北儀一郎、本山栄三・藤原武夫、舟田三郎、鈴木勇、小笠原勇八、中島泰一郎、八代陽らと会談したこと、またこの中の数名は夜おそく、霜鳥につれられて私の家(当時牛込の大曲にあった)を訪ずれ話し合ったことも覚えている。
話し合いは順調に進んだ。そして部の名称を「山岳会スキー部」とすること、第一回の事業としてスキー合宿を妙高山麓の関温泉で行なうことをきめた。大正九年十月のことである。
山岳会スキー部の合宿は大正九年十二月終わり、関温泉の笹屋と朝日屋の二軒に分れて宿泊し行なわれた。会する者四十余名・スキーでは前記のほか中川太郎・波部光民、渡部良吉、鈴木信三、若林初太郎等でほかに数名の飛入りもあった。
スキー関係者はすべてスキーを持って参加したが、山岳関係ではまだスキーを持っていない者もいた。そこで舟田は、あらかじめ高田のスキー商、山善へ行き、 リリエンフェルト式締具のついた立派なスキー十台を借りてきて、これらの人々に穿かせた。このスキーは一度使用したため返却することがでぎず、結局代金を 支払わざるを得ないことになった記憶がある。
この合宿に持参した私の装備は次の品々であった(数学は値段)。
スキー(二米・ケヤキ材、リリエンフェルト式締具、山善製、四円五十銭)、両杖(竹製、一円)、スキー靴(網倉製、十二円)・ルックサック(美津濃製、五 円)、セーター(美津濃製、六円)、ほかに毛糸製スキー帽、手袋を持ち、乗馬ズボンに太い毛糸で編んだ舶来のストツキングを穿いた。アノラックはまだ輸入 なく、シールも持っていなかった。大勢の中には軍靴に巻ゲートル、それに角帽で通した者もいた。
講師に笹川速雄、小林達也両氏を依頼した。笹川氏は笹屋のご主人で、当時スキー界の第一人者といわれ、山スキーもこまかい技術もうまかった。小林氏は勝 れた体力で登山に強く、しかもその技術は日本一といわれ、神奈山の大斜面をあざやかなボーゲンを描きながら降るその見事さは、われわれのあこがれであっ た。ただ小林氏は高田の小学校の先生をしておられたので、指導を受けた日は少なかった。この両氏は当時の日本スキー界の代表であり、日木スキーの創始期に 活躍された高橋進、阿部正量両氏につぐ大物であった。われわれがいきなりこの両氏の指導をうけることができたのは幸であった。
当時ほかの大学のスキー部にはまず北大があり、東京では東大と学習院があった。したがって早稲田大学スキー部は大学スキー部としては四番目に創立されたこ とになる。東大と学習院も関と赤倉を根拠地としていた。まだ権威ある競技会が行なわれていない頃のことであるから、毎日行なう練習も、各種登行のほか、直 滑降、斜滑降、全制動、半制動、全制動回転、ボーゲン、クリスチャニア、テレマーク等の初歩の基礎的な技術が主で、その技術を実際に生かすための登山で あった。関温泉の裏に聾える神奈山が最高の目的としてスキー登山された。
早大山岳会スキー部の合宿もこの程度の域を越えることなく、巧い者もいて、笹川氏をして”もうおまんたには教えることがない”と嘆かせた場面もあったが、半数以上は初心者だった。
ほとんど高田産のスキーを穿き、滑降を楽しんだ。朝日屋に合宿をしていた連中が、笹屋の待遇より悪いといい出しもめたこともあったが、まあ和気あいあいの一週間だった。宿料はいくらだったかはっきり覚えていないが・一日二一食付きで八十銭位ではなかったかと思ぅ。
一日熟達者だけ十名ばかりで・燕をまわり赤倉へ出かげたことがあった。登りきって丸山の急傾斜を一気に降り、赤倉で練習している人々を驚かせたが、帰路に なって岩田繁三だけは燕を迂回しないで、大胆にも大田切の断崖を横切り夜になって戻って来た。帰りがおそいので遭難したのではないかと私たちを心配させ た。
この大正九年の二月に高田で開催された第八回全国スキー大会の大学高専組に六名の選手が出場した。蒔田、霜鳥、東条、中川、山田、幸田の六名で、早大ス キー部はじめての競技出場である。コースは高田市郊外にあり・レルヒコースと呼ばれている旭山から黒田山を経て陸軍射撃場までの三キロ余で、最後に平地は あるがほとんどが滑降コースである。この競技を当時内地では長距離競走といい、同時出発であった。スタートとゴールを同一地点とし、30秒おきに出発する 現在の距雛競技はまったく考えられなかった。このコースの記録は大正二年の二十一分であったものを、高田中学の選手によって十二分台にまで更新されてい た。この競走で中川新が優勝した。しかし記録は中学選手が十三分台のタィムを出したのに対し、中川の記録は二十四分であった。翌朝の高田日報は次のような 記事をのせた。"この競走はさすが大学選手のこととて悠々閑々二十分を過ぎるも姿を見せず、ようやく二十四分にして早大の中川選手ははうようにして決勝線 に入れり”と。
附記
1、早大選手は翌大正十年のこの大会には出場しなかった。同十一年池の平での東京スキー倶楽部主催の"日本スキー選手権大会"には出場し、爾来、翌年から開催された。第一回全日本ス キー選手権大会"からは毎年出場し、かがやかしい歴史をのこしている。
2、上記のようないきさつの上、山岳会スキー部は創立されたが、学校体育会への加入は許可にならず、加入が承認されたのは大正十年九月で、それもまだ仮加 入といぅことであった。正式に承認されたのは翌大正十一年である。その際の代表委員は山田広と小笠原勇八、委員は山岳から中島泰一郎、土屋由郎、会田次郎 の三人、スキーから中川新、東条義人、蒔田庄太郎の三人が選ばれた。さらに、山岳会スキー部が発展的に解消して山岳部、スキー部が夫々独立して 加入承認されたのは大正十二年であった。(完)