卒業生の早すぎる死
愛すべき 故 野上幸寿君 に捧げる
神様はなんと無情なのか。。。
7月5日、平成17年卒業 野上幸寿(のがみ たかひさ) 君 が他界しました。死因は、脳底動脈瘤による脳幹出血および
クモ膜下出血。 まだ27歳の若さでした。
3週間ほど前、札幌で私と一緒に食事をした時は、元気そのものでいつもの幸寿だっただけに、まさか・・・
言葉を失うとは、このことを言うのだと思います。
私が監督になって2年目に送り出した卒業生です。 こんなこと、受け入れたくありません。
7月5日昼に仕事を終え、自転車で練習に向かうため交差点で信号待ちをしている時に、急に頭を押さえて倒れた
そうです。通行人の方が110番に通報し、病院に搬送されましたが手の施しようがなく、その晩23:42に返らぬ人
となってしまいました。
に入社し、競技生活(クロスカントリー競技)を続けていました。
2009年3月の全日本選手権15kmフリーで優勝、初の全日本タイトルを手中に収め、
その後、2010年3月の全日本選手権15kmクラシカルで3位に入るなど活躍しました。
← (写真) 2010年3月 全日本選手権3位、一緒に戦った最後の試合での野上君
冬季シーズンは、国内大会で早稲田のテントに来て一緒に試合前のワックスを塗ったり、
「俺も頑張るから、お前たちもしっかり走れ」と檄を入れてくれたり、試合中も早稲田の
選手と同様に野上君のタイムチェックを行なったり、早稲田のミーティングに参加して
くれたり、同じ時間をかなり共有していました。
野上君の訃報を聞いた時、走馬灯のように昔からの彼との関わりが頭の中で甦りました。
・中学3年の時、元気のいい走りをしていたこと
・高校1年の時、全日本選手権(白馬村)で、ある晩、私の部屋に来て「早稲田に行きたい」 と
直訴してきたこと
・高校3年の時、大学進学のために彼の自宅に勧誘に伺った際、意外にも物静かだったこと
・大学1年の時、初々しい顔で入学してきたこと
・インカレなど主要大会では「勝負の赤いキャップ」を着用していたこと
・フリーテクニックは大学生の中でトップクラスだったこと
・大学では、我々の目を盗んでちゃらい行動をとっていたが、すべてお見通しだったので、憎めなかったこと
・やんちゃをしながらも練習だけはしっかり考え、人一倍練習していたこと
・大学2年の時、一緒に行ったユニバーシアードで、下りで転倒し腰を痛打してずっと落ち込んでいたこと、
また、韓国チームからキムチをもらい宿舎のホテルで食していた時、外国選手に嫌がられたこと
・後輩の面倒見がすばらしく、部員の信頼が厚かったこと
・ギターを覚えたのがうれしかったらしく、合宿先にも持ち込んでいたこと
・同期のメンバーにかなり迷惑をかけていたが、同期の結束でお互いに支えれれていたこと
・後ろめたさがある時は少し早口になってばつの悪そうな顔をすること
・大学4年で就職の時、JR北海道へ入社するために悩みながらも必死で努力していたこと
・JR北海道に入社後、あらたな環境で苦労しながらも頑張って練習していたこと
・早稲田とJR北海道との合同合宿で、早稲田の後輩と切磋琢磨していたこと
などなど、思い出は枚挙にいとまがありません。 そんな愛すべき男でした。
この文字を打っている今も涙が溢れてきます。
野上君が早稲田に入学した後、2年後輩の成瀬野生君(現岐阜日野自動車所属/トリノ五輪・バンクーバー五輪出場)が
高校3年の時、私が勧誘に行った際に 「野上さんがいる間に一緒に切磋琢磨したい」 と言っていたことを思い出します。
それだけ野上君は後輩の目標になっていたということです。
とりわけ、彼の同期や後輩たちがすばらしく、大学在学中に切磋琢磨して大きく競技力を伸ばし、今では社会人となり
人間的にも大きく成長したすばらしいメンバーが揃っていることがその証左であろうと感じます。
今、早稲田大学スキー部は、選手の頑張りで2007年以降4年間で3回の大学日本一(総合優勝)となりました。
野上君が在籍していた頃の早稲田は、インカレで総合優勝を争うチームに脱皮しつつある時代で、その頃を境に総合優勝
を勝ち取るチームへの橋頭堡がつくられてきたと言っても過言ではないと思っています。
彼らの代、次の代、その次の代・・・それぞれの代が今に繋がる基盤をつくってくれたことが大きな契機となっています。
その時代ごとに選手それぞれが、いろいろな想いを持って切磋琢磨して努力してくれたからです。
このことは、ことあるごとに現役部員にも話をしています。
ありました。 その中で・・・
・自分の競技観
・早稲田に対する想い
・練習計画
・後輩への期待
などをよく語ってくれました。
← (写真) 早稲田との夏季合同合宿で。
右から3番目が野上君。
早稲田の選手は、それらを聞き、それぞれが咀嚼して理解してきたと思います。
今となっては、無形の形見であり、財産です。
野上君の想いや考え方を現役部員が理解してくれているものと信じていますし、そうであってほしいと思います。
5月に創部90周年記念のスキー部会報誌 「早稲田スキー 」に野上君が寄稿してくれています。 その内容があまりにも
すばらしいので、ここに記し締めたいと思います。 彼の遺稿ともいうべきものです。
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『スキー部90周年の歴史を考える「壊れないシュプール」』 野上幸寿(平成17卒)
日頃、早稲田大学スキー部のためにご尽力をいただいております関係者の皆様に心より御礼と御祝いを申し上げます。
スキー部が創部90周年という大きな節目を迎えるに当たりまして、私自身も部の歴史というものを改めて考えてみました。
私は、在学4年間ランナー部門を努めました。スキーは小学生の頃から行っていたのですが、今とは違いシーズン初めの
雪上練習を行なう際、手作りでコース(シュプール)をつけてから練習を始めていたことを覚えています。
多くの先輩方が経験されているかと思いますが、雪にシュプールをつけるためにはまず何人かでスキーを履いた状態で
列になり、あたかも蟹の行列が行進するかのように横に歩き、雪を固く踏み固めた後、板を平行にしてシュプールの幅に
溝をつけていきます。その後、何人もの選手が滑ることによって、より滑らかで固く、「壊れないシュプール」に変っていき
ます。
その際、雪を踏み固めずにシュプールだけつけようとするとストックは埋まり、コースはすぐに崩れ、練習を続けているうち
にとても走れる状態ではなくなってしまいます。
時間は掛かりますが、最初の雪を踏み固める作業が良い環境で練習を継続していくためには何より大事な作業なのです。
部の発展というものはまさにこの作業の積み重ねであると感じます。
90年という長い歴史の中で、先輩方が固く踏み固めてくれた土台に、その後輩達がまっすぐに跡をつけ、また次の
後輩達がその上をしっかりと走る。また新しい場所に足を踏み入れる際にはまずは土台を踏み固め・・・その繰り返しに
よって、部は揺るぎなく強く発展してきたのだと思います。
多くの先輩方のおかげで私たちは在学時代に思い切り競技をすることができましたし、私たちが走り踏み固めた道も
また、現役の選手たちの土台となってくれていると、僭越ながら思っております。
スキー部に携わったすべての人々が作ってきた歴史、「壊れないシュプール」が今日の早稲田大学スキー部を支えて
います。これからも早稲田大学スキー部にはその歴史を踏みしめ、さらに遠くへ歩みを進めていって欲しいと願っています。
本当におめでとうございました。
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幸寿、またどこかで会って、食事に行こう! 合掌。